多様性に即した表現



流れ上、幾度も綴ってしまうけれど

羽生結弦という人を知ったのはソチだ。

 

 

そのフリーで目にした衣装は

Romeo そして Juliet が融合された印象で

プログラムの世界観を より強めていたように思う。

 

 

 



先日私は、再び初代 Romeo を描く機会を得たが

未だ手付かずだった二代目にも 今回やっと辿り着き

Juliet と Romeo それぞれのイメージで編集を進めた。 

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フレームの色をイメージで替えただけの段階から

イメージ比率を変えて融合させたものをひとまず編集し





そう言えばと、まさに原作の Romeo そのもののようだった 年齢通りの初代と

Juliet 感高めに編集した二代目を後者のフレームに再び組み合わせる。




でも 描き方や編集が結構違うから

少し編集し直した程度では、ご覧の通り馴染みが悪い。

 

 

想いが強いほど作り込んでしまう自分は

結局 初代をまず編集し直し、差し替えてから

再度細かく編集。







そもそもが どちらもこれを想定して描いたタッチではないため

馴染み切れないのも この辺で良しとする事に。


少し濃い目な仕上がりだけれど

前回に続き 想いが果たせてほっとした。

 

 

 

 

 

しかしながら その間

引っかかりを感じていたのは表現方法。

 

 

前段通り私は、ステレオタイプな色の印象で分けようとしたけれど

それに替わるものを自分が全く持っていない事に愕然とし

その難しさを痛感した。

 

 

 

多様性の受容が問われる この時代。

 

 

デザインなどの表現も、移り行く世の認識に基付いた変化が必要だけれど

“ 世の認識 ” 自体さまざまなようで、軸足の置き所を探すのは難しい。

 

 

 

 

今 日本人も10人中一人はLGBTsであるという話を、随所で聞く。

 

一部の学校などではそういった事も違和感なく受け入れられているそうだが

普段メディアで見聞きするのは旧体依然の事例ばかりだ。

 

 

 

しかし、言葉に限らず表現する全てに対して

それぞれが意識を持つ必要があるだろうし

 

それを乗り越えなければならない事も

みんな薄々感付いているように思う。






現在、実際にはデザイン展開がどのようになされているのか覗いてみると

トイレでは、誰もがイメージする男女のピクトグラムの間に

縦半分にした男女のピクトを接合させて加え、手を繋いだような例を目にした。


ピクトのデザインも ほんの少し手掛けていた私は

シンプルなその画像にしばし見入り、ちょっと胸が熱くなる。

 

 

 

 


 

 


描く事がなかった時代、造詣も持っておらず

それでも美術展にはよく足を運んだものだが

 

画家とイラストレーターの違いは

最終目的が商業ベースにあるかないかくらいにしか考えていなかった。

 

 

実際のところ、現代では明確な線引きはないようだ。

 

 

 

 

私自身は、美しくわかりやすい

グラフィカルな作品に心惹かれる。

 

 

 

アルフォンス・ミュシャは戦争に対しての思いを込めた作品も残しているけれど

言わずと知れた、ポスター類を代表とするグラフィックデザインの先駆けでもあり

私も色濃く影響を受けたと思う。

 

 

 



スウェ―デンを代表するカール・ラーションも

憧憬の念を抱く画家の一人だ。

 

 

淡いセピアのレイヤーを陰に忍ばせたような彼の水彩画は

明るい郷愁を誘うとでも言おうか、とても魅力的である。

 

だが何といっても、画集「わたしの家」に代表される

今をより生き生きと息付くような、イラスト感の強い作品を観るにつけ

 

その わかりやすく温かみを持った美しさは

迷いの多いこの時代に於いて、より求められるものと思う。

 

 

 


それにしても、ラーションまでも浮世絵に大きく影響され

「日本は芸術家としての私の故郷である」とまで語っていたと知り、驚いたが

 

水彩画からの変遷を見ればそれは明らかであり

思わず唸った。