教育哲学の必要性


アメリカ大統領選に於ける、想定外なトランプ氏への投票数は

経済への不安そのものと言われる。

 

 

 

結果を追う中

日本でも絶え間なく語られていたのは経済の行方。

(そしてそれは あくまで “受け身” からの想定だ)

 

 

 

実体を伴わない経済は幸せをもたらさないと

多くの人が気付いても尚、もはや引き返せず

 

マネーゲームは激化している。

 

 

 

 

 

 

COVID-19の危機により誰もが打撃を受けると予想されていた世界経済は

実際のところ、超富裕層の総資産額が過去最高になったという。

 

 

 

 

 

なのに国内では

投資信託など金融商品の授業が始まると聞き、気が塞ぐ。

 

 

 

『商品』という言葉からは、あくまで資産運用が目的で

その内容は株本来の主旨から来るものではない事が伺え

 

つまるところ、国の負担を減らしたいだけのように受け止めている人は

少なくないはずだ。

 

 

 

 

 

何よりも学ぶべきは哲学だと思う。

 

 

 

精神の軸が育まれなければ

混迷し、さまようばかり。

 

私はそれを学ぶ機会がなく

ただただ迷い続けている。






日本の p4c (こども哲学)については、2020.4.26のブログで触れたが

https://rouxstroom.amebaownd.com/posts/8151250

( 彼女は言った「たぶん、 そういうことじゃない」)

現状としてどれほど取り入れられているのか

そして実際、子供達に何をもたらしたのかはわからない。




ただ、ブログ内の件では

昇華できる子供は僅かに思えるけれど


他の教科で理解しきれる割合も、似たようなものかもしれず

また明らかな変化はなくても 確実に根付く何かがあるはずだ。



   

 

潮流に溺れないよう、実質的な経済の学びが必要なら

並行して哲学に時間を割く事も必須だと思うが

 

学ぶ側の悩みは深くなってしまいそうではある。

 

 

 

 

それでもこの濁り切った世界経済の中で生きて行くには

 

閉じられた空間の中で、せめてグチを言いつつも

深く考え、自らの行動を選択していくしかないだろう。

 

 

 

 

 

この春からどの場に於いても 「経済か安全か」 の二元論を交えているが

現状を快方に向かわせるには、アクセルとブレーキを細かく踏み替えねばならず

 

大体の事は、二つに分けて考えるべきでも

そもそも分けられるものでもないと思う。

 

 

 

 

そのような考え方は、前回綴ったクアドラティックボーティングの方向性と

 

> 短いスパンで細かく投票する機会を作り、「民主主義の回線速度を上げる事」

に通づる。

 

 

 

 

面倒でも大変でも

切れ目なく考えていく。


知見を広げて行く中に新たな悩みが生じようと

一方では確実に得るものもあり、生きる支えにもなる。 

 

 

 


>言語習得はわからないなりにでも、続けていけばバラバラなものがいつか繋がり始める

>そう聞いた事がある。

上記ブログ内では、このような事も書いた。


続けていけば慣れとして負担が減る部分もあるだろうし

やがては学びが劇的に繋がるといった時期が来るだろう。

 

 

 

 

 

 

話が飛ぶようだが、私は

データの保存を大掃除に例える。

 

「たまりきった掃除をするのは大変だけど

一度思い切って頑張れば、あとは定期的にするか

自分で決めた汚れ具合(データ量)になった時すれば良いから」

 

 

 

 

そうね、と

そうなんだけどね、に

 

返事は分かれる。

 

 

ただ、意外とほとんどの答えは前者の「そうね」なのだ。

 

 

 

 

 

 

皆思っている。

 

 

 

 

 

 

それは地球上に起きている諸問題についても同様で

 

あとはどう進むかが

それぞれに委ねられ

 

その責任と権限が

一人一人にある事を

 

 

 

私自身も改めて

肝に命じたい。

 

  

 


 

 

  

先日厳格なルールのもと行われた体操の競技会で

見事にブレッドシュナイダーを決めた内村選手の

東京オリンピックに対する発信が反響を呼んでいた。

 


“どうやったらできるか”を皆さんで考えて

どうにかできるように、そういう方向に変えてほしい

      

 

「しようがないのかなと思うけど」と前置きしながら続いたその言葉は 

内村選手自身も様々な葛藤を経て発したものと、私も重く受け止めた。

 

そして、その想いも理解したいし

何よりも状況が圧倒的に上向きになるよう願っている。

 

 

 

更にそれは

続くオリンピックにも当然響いてくる事でもある。

 

 

 

 

一方で他国選手の

外出できない事に対する不満やPCR検査の身体への負担軽減の訴えは


※追記  私は不満と受け取ってしまったけれど

その時訳されていた言葉は「クレイジーだ」。


後者に関してはオリンピック開催時への要望で、

「サウナは私にとって体形を戻すのに最も簡単な方法」として

サウナやプールも加えて欲しい、とし

「必要な事があれば何でもやります」と

言葉を継いでいる。

 

心情的には理解するし

それが他者の訳した内容で、真意がわかるかどうかは判断できないし

インタビューの前後もわからないので、リードされ切り取られた内容かもしれない。

 

お国柄による考え方や、その発し方の違いもあるだろう。

 

 

そうであっても世界的な状況を考えれば

言い方を変える事が(本意であれば考え方そのものかもしれないが)

大会開催の是非に関しても彼自身に対しても必要なんだと思う。

 

 

 

 

今この瞬間にも

COVID-19所以の様々な理由で命を脅かされる人が

世界中に恐ろしいほどの数で存在する事を引き合いにすれば

もはや大会の有無自体語れない状況なのだから。

 

 

 

 

 

 

大きな苦しみを伴いながらも、誠実に進み謙虚である事が

共感と協力を呼ぶという事実を

 

私は羽生さんから

実感を伴い、学ばせてもらった。

 

 

 

 

 

 

誰であれ、またどんな些末な事であれ

 

物事を進めるのにどのような方法を選ぶのかは

都度自身で判断しなければならない。

 

 

つまりは、あらゆる事への選択が

死ぬまで絶え間なく続いていくのだ。

 





大局かつ長いスパンで見れば

 

何事も望む方向へ効率的に進めるには

いい加減なやり口では無理で

 

 

上述した “ 誠実で謙虚 ” な姿勢を

全ての根幹に置く事が大切なんだと思う。





  

 



2021年 年賀状コレクションでも

一番大きく扱われている この大会の画像。




 

 

 

 

 

 

「描いてしまったなりに仕上げていくしかないから、諦めが付くアナログに対し

何度でも描き直せるという、デジタルならではの遅さ」

 

「(アナログの)やり直しのきかない魅力と難しさ」

 

漫画家のすぎむらしんいち氏・岩本ナオ氏がそれぞれに語っていた。

 

 

 

 

 

そう

 

名の知れた絵画の巨匠たちも

死ぬまで作品に手を加えているが

  

デジタルでは

描き直せるが故に、完成とする見極めが難しい。

 

 

 

 

 

 

 

色々な事を手放しながら

私もその見極めをいつもギリギリまで粘ってしまうのは

 

― 彼の様々に秀でたものの片鱗でも描き表せれば ―

 

そんな想いもある。

 

 

 

 

 

例年この時期は忙殺され、勤務時間も朝晩共に長くなった上に残業続きで

毎日ボロボロに疲弊している。

 

大雑把な説明のみで進行中の新たなシステムの扱いにくさと

単純なPC作業が恐しく増えた事も大きな負担となり

それぞれのミスがまたミスを呼ぶ悪循環が続く。

 

 

不祥事による欠員に替わる人はやっと来たけれど

昨比で人員は少ない。

 

 

 



それもこの状況下では仕方のない事だし


今より少し前の時期だったが 

去年には私自身も利き腕を骨折し

ひと月以上休んで迷惑をかけていたのだ…

 

 

 

 

 

そういった疲れや乾燥のせいだけであればいいのだが

このところ鼻血が出やすい。

 

ある日は帰宅後慌ただしく買い物の整理をしていると

何となくその感覚があり、慌ててティッシュで押さえた。

 

 

そしてその後止まらないのだ。

 

 

ドクドクまでではないもののトクトクと結構な量のようで

夜でもあり不安に駆られる。

 

 

結局15分ほどで一応止まったものの

すぐにも決壊しそうな感じで緩やかにしか動けず

 

何とか落ち着いた頃には

結構な時間となってしまった。

 




そして今も

何となく不安な気持ちは続いており

他にも身体の問題は尽きない。







誰しも抱えるものはあるはず。




そんな風にやり過ごすのは

間違いなのかもしれないけれど



どうしたのものかと思いつつ

日々は過ぎて行く。