存在と命


「人が存在する 全く同じ場所には

他の何も存在し得ない」



言葉を残したのは親鸞聖人。





確かに


人に限らず、存在を持つ全てのものは

それ以外の存在と絶対的に影響し合う。





何か物事が起きた時

それぞれの立場には、それぞれに理由があり


善悪で判断するところから考え始めると

事態は悪くなりがちで


俯瞰し

様々に推し量って進める事が必要。






そのような事を 前ブログで綴った


― 全てのものは繋がっている ―


という思いについて補足したい。





新たなウイルスの発生原因に関しては所説あるようだが

このところ報道されている 熊出没の件同様


人間の行動範囲や生活圏の拡大が一因であるのは

間違いないだろう。





回り回れば、そこからは誰しも恩恵を受けている面があり

問題となっている部分から敵対視するだけでは

抜本的な解決にはつながらない。



一方、客観的に捉えるだけでも

やみくもに行動を起こしても

まず事態は好転しないので、難しいのだけれど。






COVID-19が取り沙汰され始めた頃にも綴ったが

新たなウイルスの出現するスパンは確実に短くなっている。


今回 終息したとしても

次なるウイルスが世界中を駆け巡るのは、想像に難くない。



事態が繰り返されるごとに経済もいよいよ危うくなり

個々へのダメージは、社会の安全崩壊に連鎖していく。








安穏と暮らせる時代は過ぎ去ってしまった。






少なくとも自分は


宿題を見ないふりをしてきた

夏休みの終わりのような状況だと認めざるを得ず


しんどいけれど重い腰をあげて

教科書を開いているような日々を送っている。




ただ 僅かでもわかってくる部分があれば、その中に

生きる上で問い続けてきた事への救いを

見つけたりもするのだ。







頭脳を発達させた人間という存在が、大きな影響を及ぼし

複雑に入り組んだ問題が世界中に山積みとなっている現状。


それらを全て解きほどくのは無理にせよ、せめてあちこち緩めていかなければ

いずれ何らかの形で終焉を迎えるのは免れないだろう。







マスクマップでその名が広く知れ渡った

台湾IT担当閣僚であるオードリー・タン氏は


多様性の受容と人の持つ知恵を活かす事を

様々な問題解決にあたり、まずは提言しているように思う。





これは、当たり前のようでいて難しい事だから

各方面で問題が多発している。





少し前になってしまうけれど

Newsweekで特集された 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏との対談で目に止まったのは


「Unicodeコンソーシアムが、一番よく使うような絵文字である「歓喜の笑い」「歓喜の涙」の顔は、デフォルトでジェンダーニュートラルに見える必要がある、と言い始めた」の部分。



※三回に分けて掲載された この対談の一回目は

https://www.newsweekjapan.jp/yukawa/2020/07/post-23.php





そこから男女どちらかに見えるようにするには、同等の作業量とする事を主張し始め、

そういった事が一般的になってきた、と言うのである。


※これは 今の時代、絵文字で人の表情を表す場合

 男女の区別を認識しない形が求められる

と、理解した。





私が少し前に描いたRomeo&Julietを編集する際

残った課題を思い出す。




世間ではLGBTから

LGBTQかLGBTsに言い換える事が多くなってきた。



時と共にジェンダーの意識が変化する人もいて

「s」は全てを包括できるように思うから、私は後者を選んでいるが


そもそもジェンダーで分類する必要性って どれだけあるんだろうと思うし

理想と言わず、そしてジェンダーに限らず

可能な限り 分類の必要がない世界を目指すべきだろう。




国内では今、どれだけ意識が変わっているのか。



新内閣で言えば、顔ぶれだけでも

その観点からは全く期待できず


打ち出したジェンダーに関わる施策は、否定する内容ではないものの

まずは旧時代の意識から来るものばかりと感じる。







話が逸れてしまうけれど

「通話料値下げ」を真っ先に取り組んでいる事にも モヤモヤ。




経済的には消費税1%の減税に近い効果を望めそうで

法改正を必要としないため、国としては色々と楽らしいが


SNSの問題は引きも切らないし

スマホ依存から来る弊害も大きい。




値下げ分で経済を活性化すると言っても、その場しのぎとしか感じられず

他の問題に拍車をかけているように思えて仕方がない。



リモート環境の整備が必要な状況ではあっても

真っ先に取り組むべきはそこじゃないだろう。








ー タッチスクリーンには大変な中毒性があると思い

ケータイに夢中になるのはあまり好きではないから ―


これは、先のオードリー・タン氏が

個人としてフィーチャーフォンを使用する理由。


私も同様に感じるし、他の理由もあるけれど

エコーチェンバーやフィルターバブルに

嵌っていくのを避けたい事が大きいから

(これが結構怖い)

Web上には必要以上に留まらない。



デバイス対応が氏のようであると、一般的に個人からデータ収集はできない。



上記対談内で、同氏はこれを

「医療用マスクをつけているようなもの」


すなわち

―無用なレコメンデーションから守ってくれる ― と言う。




― 情報感染モデルのR値が1以下になってしまえば

悪い情報や悪質な考え方は拡散しない ― とは


西村教授の数理モデルで言うところの

実効再生産数か。



 

そう言えば、今どうなのかは知らないが

かつて政府中枢に在る人は、機密情報の漏洩を防ぐためもあって

ガラケーを使い続けていた。


その理由を知らないと思われる人達は、あちこちで揶揄していたけれど。






現状において 三大キャリアがやみくもにスマホを勧め

後のフォローがずさんなのは無責任過ぎるし


こちら側も何も知らずに利用するのは怖すぎる。




「こういうの弱くて」と、腰が引けたまま

無防備にスマホを利用している高齢の方と話すたび


5Gといった進歩との隔たりが大きい事を実感する。






デジタルに触れる機会がないまま、webに足を踏み入れる際、まず知るべきは

できるだけ安全に利用する術と思う。



● 頼れる人に相談して きちんと学ぶ事


● 料理でも何でもそうだけど

 ある程度まではとにかく慣れだという事


● そして肝心なのは「できない」とか「苦手」とか口にして

 自己暗示をかけない事



私も特にデジタル方面に明るいわけではないから

その3点で励まし続けるしかないのだけれど。






ウイルスが問題視され始めた頃私は

自身が社会の空気を暗くするデータの一つになりたくなたかったので

ウイルスやコロナという単語を避けていた。



これは、酷い文章力による読みづらさに拍車をかけていて

読んで下さった方には申し訳ないばかりだが


極小のデータも、同様のものが圧倒的な数になれば

他を駆逐すると考えるからだ。





現実として、Twitterのトレンドワードなどで

世間の声はわかりやすく可視化されたが


無意識下に影響を与えようとする動きに対し、注意を払うべき時代は

結構前に来ているはずだ。






ネガティブな事ばかり綴り

空気を重くするのは不本意なので

おっ、と思った事をひとつ挙げたい。



それは、自民党 青年局長に初めて女性が登用された

衆議院議員 牧島かれん氏の件。



牧島氏は、新たにIT大臣となった平井氏のもとで           

IT特命委員事務局長を務めていた経験もあり

党内の事であっても 地方をネットワークで繫ぎ

その声を活かしていけるのでは、という声があった。



この役職については

小泉進次郎氏が就任していた事くらいしか知らなかったけれど


台湾と議員外交をずっと続けてきたのは

この青年局だけという。




自民党の覇権が続くのであれば、せめて牧島氏には

広く等しく話を交え


多様性が根付く社会に繋げて欲しい。








その旅立ちから


自分の中では

“せかほし“ の時が止まっていた。




最終出演回の冒頭では

感謝と哀悼の意が記され


エンディングに

「 三浦さん 2年半 ありがとうございます 」

という、過去形ではない言葉が

笑顔の画像に添えられていた。





番組リニューアル前の回で

最後に、JUJUがペンを走らせた言葉は


「Thanks a million !」 であり、それを

「せかほし& JUJU」から、とした。





そして新たなページが開かれる




これまでリアルタイムで視聴する事は殆どなかったが


早めに就寝しようとした流れから

偶然、そのLive放送を

目を閉じたまま聞く事となった。





注意深くその名前が会話の中に流れたのは

番組開始から しばらく経った頃。




その感情は自分でもよくわからなかったけれど

それを耳にして、しばらく声をあげて泣き


遠くに音が流れるなか

いつの間にか眠りについた。




翌朝

JUJUのカバーで「奏」を聞き

また号泣する。




その涙はどちらも

別れのために必要だったのだ。

 

 

 

 

ありがとう。

 

 

そして、今度こそ

さようなら。

 

 

 

でも

 

忘れません。



 



 

 

オードリー・タン氏の肝心な話には、まだまだ辿り着いていないけれど

長文になってしまったので、またいつかという事にして

今作の話へ。

 

 

 

 

正直なところ私は、人間の肉体自体には ほぼ興味がなく

UAを着用したり 美しい衣装などを纏った姿を描きたい。

 

それが、実は何度も次作候補に挙げながら

このシーンを描くには至らなかった理由だと思う。

  

 

 

しかし先日、撮影した田中宣明氏が当時の思いを語り

この表情を描くべき時が来たと感じた。




 

 


いま、血流の悪い手は しもやけでパンパンになり

曲げた指が掌に付かないような状態だったりもするし



自分の描き方は

生物に向かないという理由以上にいつも苦戦していて


今回も腕やら布の複雑なしわやら

難局続きだった。

 

 

 


でも、その時を描き止めたい気持ちは

それ以外の様々な障害も跳ねのける。

 

 

 

 

 




社会には

悲しい知らせが続いている。

 

 

 

 




彼がプログラムのタイトルとした

“SEIMEI” 

 

 




私は、いま一度





その意味に


思いを巡らせている。