伝えるという事



歴史的な人物の画像や年号が違っていたようだ、とされる事に伴った

教科書内容の見直しを このところよく見聞きする。




前ブログで少しだけ触れた織田信長についてのエピソードも

「泣かぬなら」で知られる性質とかけ離れた印象があったので

  

信長の捉えられ方も変化しているのかと思い

最近の分析を少しだけ探ってみた。

 

 



イメージが異なるものの一つとして

焼き討ちは、一年近く前から歩み寄る書状を出しながら

返事がなかった末に至ったものであり

 

別の記述にある、サポート側に回って太平を保とうとする意向からは

“野望”という、よく耳にする表現とは逆方向の精神性が汲み取れる。

 

 

  

何にせよ、物事の年号や人物画像を答えるようなテスト内容を変えないと

教わった年代によって混乱が生じるし

頭に刻むべきは 本来 そこではないだろう。


 

 

歴史に限らず教科とするのは難しい。


伝えるという事自体、容易いものではないわけだから。


 

 



今も昔も伝わってくるあらゆるものは断片的で

間違いも多くあったり、偏った感情を移入されたりして

各々の取り込める要素や考えにより 捉えられ方は大きく異なる。

 

だからこそ、それぞれができるだけ広く情報を取り込み

フラットに より望ましい判断ができるよう努めないと

様々に軋轢が生じてしまう。 

 



諸問題は、遡れば関わった人物の文化や教育が根本にあり

その時々の社会構造が加速させてきた。

 

 

皆がそこに目を向けても

その皆が生きているうちに大きな変化を見て取る事はできないようにも思うけれど

 

向き合う覚悟が今後を決めていく。

 

 

 

本当に気が重い話だが

それだけに私達は逃げ遂せない。 




 


 “ フィギュアの新規定導入は保留 “

 

 

そのように飛び込んできたニュースでは

練習の再開が遅れている事に配慮した為、とだけ記されていた。

 


他のニュースサイトに於いても

「五輪まで二年の段階で規定を変えるのは正しいことではなかった」

「ISUの保留の決定は完全に正しい」という

ロシアフィギュアスケート連盟会長のコメントのみで


各国のフィードバックを考慮したとありながら

他国からどんな話が返ったのかは全く不明。

 

 


そもそも重きを置くところが違うはずだし

間違いを正すのに保留するってなんだよ、と思うし


間違いは訂正して謝るもんだと教わってるけど

違う教えがあるとでも?



 

 


ただ 、これまでの経緯を考えれば何だってしてしまうんだろうと

もはや驚かない自分もいて、 

国政に対する意識も同じようなものであり


つくづく頭を抱える事ばかりだ。 

 

 



そんな流れから、TOKYO2020 開催が延期とされていく時期に綴ったものの

ばっさり省いた文章を、以下に記してしまおうと思う。

 

 


 


スポーツ界は様々に揺れているようだが 

それぞれの困り事の詳細はまるでわからない。

 

ただ多くの人が思っているように

オリンピックは既にやめ時だと思う。

  

  

選手達の心身への過度な負担や、国籍や性別など

様々に難しい問題はないがしろにされ

経済重視である歪みはあまりに大きく

 

それらは既に誰もが知るような事で

 

オリンピック規模の大会が必要なら、問題を洗い出して新たに作り

選手に対する救済措置は、別途考えるしかないだろう。

 

 

 

ついでまでに言ってしまえば、すべての個人競技を

国で括るのはもう終わりにして欲しい。

 

文字通り競うのではなく、望まない別の戦いを選手に負わせるのは

いい加減やめるべきだ。

 

 

 

各競技の選手達の気持ちを余所に、こんな事をつらつらと綴るのは

実現性がないにせよ本当に申し訳ない限りではあるのだが。

  

 





今回描かせてもらったのは


先のOrigin後

二季目も描きたくて

 

この際やはり、と思ったこの姿。




 

競技中の別角度を既にアップしていたので

残念だが描く事はないだろうと思っていた

このシーンでは 

 

柔らかな表情と手袋を外したそれぞれの指が

優しく語りかけてくる。

 

 






もはやtwinsとして心に根付いてしまった

同季SP・FSのプログラムであるこの二つを、ここに。 

 







それにしても、だ。

 

 

度々綴ってしまうけれど、同じ画像データでも

プラットフォームによって反映の仕方がまるで違う。



 

イラストなどをメインとした別の場では

更に恐ろしいほどクリアに映るため


ごまかして描けば恥をかく。

 

 

 

そういった事から、こちらでぼんやりと表示されたものは

心が引き離されたように感じ 

頑なに ”画” という言葉を使ってきた。



なのに続けるのは、それぞれに一長一短があるから。

 

 



「重い」という声ばかりが目立ち、実際重く

本部がイスラエルとあって 日本語でのサポートにあまり期待できないのがWix。

 

一度はWixサイドの変更で訳がわからない事をされ、ブログ内も含めて

ほぼ全ての画像を設定し直す羽目になった事も...

 

 

でも私はビジネスで使っているわけでもないし

HTMLやCSSを使いこなさなくても

パワポと同感覚に細かく自由が利くのは便利で


何より解像度など気にした事がなかった。

 


だからこそ重いのは当然と言えば当然で

Galleryにはpngデータを使いたいけど

更に重くなるから使えないジレンマもある。


Gallery画像のアニメーション設定も

重くて滑らかに動かないなら

外した方がいい時期にきてるのかもしれないし。

 

 

 

一方、Ameba の大所帯から派生した

シンプルなこちらは Ownd 。


選択肢が少ないのは、考えようによっては悩みが出にくいという事であり

綴る方に集中しようという気にはなる。

 



ただそのテキスト入力でも、マウスホイールをいつも通り少し回すだけで

ポインターは遥か先へ飛んでしまうような使い勝手のため


下書きをコピペするだけでも色々と手を加えなくてはならない、とか

あちこちに独特なクセがある。

 

始めの頃は、うっかりエンターを押したばかりに書き直しなんて事を

泣く泣く繰り返した。


 

 

いずれにしても一般の個人ユーザーは

他のSNSとの合わせ技をプラスするか、積極的な第三者がいなければ

交流や認知を目的とするには向かないと思う。






でも

いろんな事があるけど

好き勝手に発信できて、想いを伝えられるんだもの。



どちらの場にも

見て、読んで下さる方々にも


心から感謝しています。






誰であれ

また、こんな風にささやかであっても


能動的になれる事を見付けて

発信出来て

受け入れてくれる人がいれば


世の色合いが変っていくんだろう。




誰しも伝えたい想いがあるはずだ。




なのに世界中で

乾ききった心の行き場を探す多くの人達が喘いでいる。



絵を描くという概念さえ

持つ機会がないまま育つ環境もあり


生きる事すら難しい人々も数え切れない。







それぞれができる事には限りがある。



だからせめて皆、身近な人達に心を砕き

考える事を続けられればと願うし


それはいつかその先に繋がると思うのだ。