銃の代わりになる 夢



SNSでの攻撃的な発信やデマが

気分を発散する目的なら


怒りや悲しみなどの反応があればあるだけ

発信者に充実感をもたらし 

 

逆に全く反応がない場合は発散にならず

行為が治まる。

 

 


その進め方は、ある意味有効だと思う。

  



評論家の宇野常寛氏も、つい 先日

「みんなツイッター見過ぎじゃないか」と話していたが


これまでもあらゆる人から同様の言葉を 

幾度となく見聞きしてきた。



でも今は、「見なければいい」という意見は

言ってはいけない流れであるとも聞く。




ずるいような話になるが、私自身は

見ない方がいい事もあると思うし


度を越した発信に対しては、

何らかの規制なり処置をする段階に来ているとも思う。





現実的には厳しいと覚悟の上

複合的に詰めていけなくはないだろうし


全く別のアプローチから

何か効果的な方策もあるのではないかとも考えている。






 

 

ただ、見ないようにしても

取り締まっても

 

依存と同様、発散したい気持ちが消えなければ

彼等は次なる対象を別の場所に求めるだろう。

 

 

世界的な紛争も些末と思えるような事も

具体的な対処と共に原因を掘り起こさねば、抜本的な解決には至らない。

 

 

 

結局はロングタームで、教育から見直す事も並行して取り組まなければならず

それはきっと誰もが思うように、非常に大変で難しい問題だと考えている。

 

 

 

 

そういった事もあり、大きな災いが降りかかっているこの状況を契機とし

教育を根本から見直すしかないと考え、直近でも長々と綴ってきた。

 

 

 

 

 

そこに再放送されたのは、2年ほど前の対談番組。

  

 

 

対話する一人は、東ティモールやアフガニスタンなど 世界の紛争地へ赴き

武装解除の指揮を執っていた伊勢崎賢治氏。

 

 

同氏は国際活動当初、NGOの赴任先であるシエラレオネで学校や病院を設置し

貧困を解消すべく生活インフラを整備していた。

 



しかし後の10年にも及んだ内戦は

氏が作った小中学校で学んだ子供をも、チャイルドソルジャーに仕立てあげる。

 

まだ分別がつかない年頃の彼等は

ゲーム感覚で残虐性を競い、人を殺すのだ。

 

 


伊勢崎氏は

大人も含めた隊を率いるような、高いスキルを持ったチャイルドコマンダーに対し

銃の代わりになる 魅力的な夢を語ってみたという。

 

 

その経験を経た言葉はあまりに重い。

 

 

 


教育は無力

平和はたぶん教えられない

暴力の魅力の方が勝ってしまう

 

 

「残念ながら」と言葉を足し

 

 

世界平和とか言うと気持ち悪い

気安く人類愛とか 愛は素晴らしいなんて言ってほしくない

 

 



チャイルドソルジャーに銃を突き付けられ

少年であろうと、こちらも銃口を向けなければならなかったその人が

訥々と言うのだ。

 


希望を絶たれた思いにもなる。

 

 


 

― 暴力の魅力の方が勝ってしまう ―

 

人類共通の本質であろう、それは

 

手をひと振り、言葉をひと言発すれば

即実行し得る事だ。

 

 

それが今、ネットワーク上にも大きく広がっている。

 

 

 

 

 

しかし、対談相手の

著名なダンサーである菅原小春さんが

誰かが言った事、として話す。

 

 

― 戦争があり続けるのは、愛があるから ―

 

― 人間が愛を持ち続ける限り憎しみが生まれ、争いはなくならない ―

 

 

 

そして、「なくならなくても、変わる事はできる」という思いは、持ち続けようと。





" 銃の代わりになる 魅力的な夢 "  


そう

「言葉の暴力」という、銃の代わりになる何かを

見付ける事ができたらと思う。



言葉の暴力をふるう彼等も、依存症の人達と同じで

心の奥底では、そこから抜け出したいだろうし


中には「暴力の魅力」を乗り越えられる人もいるんじゃないだろうか、とも思う。



そしてその手掛かりは

同じネットワーク上に隠れているのかもしれない。


 

 

 

 

 

 

対談は伊勢崎氏と菅原さんの話を前後して編集されていた。

 

その意図はわからないが

私は今自分が綴った流れであれば、そこに救いを見出せる。

 

 

 

 

次に生きていく人達のために 

 

間接的であっても、また心ならずとも

踏み荒らしてしまった後をそのままに

過ぎ去ってはいけない。

 

 

 

これまでも、そうやって歴史は積み上げられてきただろうし

小さな力の集まりが歴史を変えてきたんだろうとも思う。

 

 

 

行き詰まる胸中を語っていた伊勢崎氏が

大学院で “平和構築学” の教鞭を執っているのは

そういう思いもあるかもしれない。

 

 

 

 

 

諦めるわけにはいかないのだ。

 

 

 

 

しかしそこに立ちふさがるのは

より複雑化し、膨張し続けるデジタルベースな世界。

 

 

 

インターネットの発達はその恩恵と引き換えに

思考能力を衰えさせもした。

 

 

 

世界が慄く未知のウイルスは

便利さの引き換えとして、身近に出現したとも言われる。

 

  

大気汚染や様々な問題の数々は快適さの代償で

 

そこに生まれた格差が思想の歪みや貧困を生み出し

テロリストやネットワーク上の諍いにつながっていると考えるなら尚の事

皆で向き合わざるを得ない。

 

 



複雑に要素が絡まり合い

少しも進めそうにないような現実ではあるが、私達は


より しっかりと考えながら

支え合って進むしかないはずだ。

 

 

 



先の宇野氏は「不安と付き合っていく術を知らず

情報反乱の時代を生き抜く知恵が足りない社会」と、今を評する。

 

 

 

スキルを持たずに生きて行くのは難しい時代。

 

 


ゲーム理論では合理的とも言える行動の元となるような情報も

正しく判断しなければならないし

 

常に俯瞰しながら、情報もアップデートしないと

隣り合わせの危さに気付かない。

 

 


便利さや安全性をどこまで引き換えるのか。

民主主義の在り方も問われる。

 

 

 

落ち着いて

 


ほんの少しずつでも

進む。




知恵と術を身に着けながら。

 

 

 




 

生業は再開した。

業務内容も、取りあえずはさほど変わらない様子ではある。

 

全ては状況次第だろう。

 

 

私自身は、先々や社会情勢を考え合わせて

すべき努力を愚直に続けていくだけだ。

 

 

 

 

描く事に関しては、前回綴った通り

今制作中のものに決断するまで 長く逡巡した。

 

 

 

これまでもずっとそうだけれど、大体いつも

描きたいものと描くべきものの距離に心が揺れる。

 

 


この状況下にあっても

羽生さん自身は ずっと臨戦態勢であっただろうし

社会全体もこの状況に挑む気持ちだと思い


今回は結局、こちら一択だった。


 

 





より彼を引き立たせるOriginの衣装は

私も2代目の方だと感じているけれど 

 

こちらの衣装も

重厚さと煌びやかさを併せ持って大変魅力的。


しかしゴージャスな分、ちゃんと描こうとすれば死にそうなほど大変で

描くには覚悟が要る。 (これからその装飾部分に突入......)

 


改めて伊藤さんは素晴らしい仕事をされると思うし

この衣装の良さを余すところなく吸収し、表現に繋げる羽生さんも凄い。

 

 




それにしても、だ。


全身が描けるポーズは限られる。

 

 

 

私はご尊顔も、鍛錬の極みである身体のラインも

できれば全て描きたい。

 

上手く描けるかどうかは抜きにして。

 

 

 

以前一回だけ立ち姿を描いた際

やっぱりお顔はいつものように描き込み


結果、バカみたいに時間を費やして描き込んだ部分は

ほぼ視認できず。


 



でも描いてきたどの作も

小さいモニターで見れば細部の描き込みは全く見えず


大きいモニターで見たところで

縮小された状態だったりその環境により、印象は相当異なる。





フィギュアスケートや、映画などのエンターテインメント全般

ここに話を持ち出すのも躊躇うくらい大きな規模のものなどは勿論


携わる人達みんなが、そこに向けて思い描くサイズがあるはずだし

世界中の受け手側もそれを望んでいるだろう。

 

 

 


やっぱり今の状況はどうにかしなければと思う。