それぞれが矜持を抱くなら




人は変わって行くものだから


「信じる」と言う事に関しては

「信じられる」範囲に留まっていると思えたなら (その範囲は揺らぎ続けている)

「信じられている」あるいは「裏切られていない」

 


そんな捉え方かと思っている

 

 


 

私は羽生さんの情報も最低限しか追ってこなかったし

8月の知らせにも あぁ良かったと思いつつ その詳細を知りたい気持ちはまるで無かった




そんな事を言えば

応援する中では思い入れが浅いところに分類されそうだが 実際には


彼を描き始めてから 私は通勤のロス時間を無くすために転職し

仕事と必須の用事以外の外出も一切しなくなり

 

これだけ便利な場所に住んでいながら

この10年近くで交通機関というか 電車を利用したのは2回しかない

 


はなから余談になってしまうが 

COVID-19が蔓延した中で乗った時の電車広告は

不気味なほど少なくなっていて


しかもほぼ医療関係で占められた中にあった

 数か月先に公演されるボリショイサーカスの吊り広告は

 なんとも奇妙な感じがしたし


その後の ウクライナへの侵攻なんて思いもしなかった

 


 

描く事と時折書くブログ あとは仕事でキャパは目一杯

 

社会情勢以外の情報を見聞きする事もあまりなく

人付き合いの為にエンタメ情報を取り入れる事は最初にやめたから

その界隈の移り変わりは殆ど知らない

 

 

ニュースで桜を見ておきながら

通勤の際に 顔を少しだけ横に振れば広がる桜並木に気付かないまま

季節は幾度も流れ去ったし

 

いま何月か即答できて 例えば暑いとか寒いとか感じていても

その時の季節が瞬時に思い浮かばなかった時は

若年性認知症や脳の後遺症かと不安にもなったりもしたけれど

 

今となれば

彼にまつわるあらゆる出来事や場面は その時の感情も含め鮮明に蘇るんだから

処理能力がいま一つの私の脳は そちらでいっぱいいっぱいだった事がよくわかる

 

 

 

そうして1年はフィギュアのシーズンを中心に 悲喜こもごもを伴いながら巡り

その時々に添ったテーマを探して描く日々は駆け抜けるように過ぎ去った

 

 

 

 

 

この春に生活が変わってからは

メディアで著名人を目にするたび 浦島状態になり

そんな事はわかっているはずなのに それはかなりの衝撃で

いかにいろんな事を見ずに過ごしてきたかを思い知る

 

 


 

彼に熱心なファンは世界中に数多存在するわけだけれど

画像を見ていた時間で言えば 自分も描くために相当な時間を注ぎ込んできた一方で

言動は知らないことだらけ

 


それは彼が根本的に揺らぐことはないだろうと いわば確信していたからで

それは今も変わらないし

それは「信じている」という事にもなるんだろう

 

 

 


 

8月の知らせに抱いた一抹の淋しさは

ジャッジや他の競技者に相対し 同じ側で応援する感覚が持てなくなるという

競技の場を離れた時の感覚に通じ

 

目指すものは変わらなくても

同じ側からではなく さらに別の位置から目指す事になったような感じであったものの

 

 

もとより遥か遠くに在って 人と位置付けられないような象徴的な存在なので

引きずるような事もなかった

 

 

 

 

 

 

そして先の知らせが届く

 

 

 

 

 

私は “可哀そう” という言葉に どこか上からの印象を持っているから

他のどんな場面でも ほぼ使う事がなかったのに

なぜかこの時はたまらなく可哀そうと思い

あまりのいたたまれなさに 声を上げて泣き続けた

 

 

 

 

その後眠れない日々を過ごした人は多いようだけれど 私も同類で

ふらふらで危うくエスカレーターの最上部から転落しかけて我に返り

 

以降は 中国杯後の偏向するマスメディアの報道を追った時のように

アクセス稼ぎのものは当然避けたが 普段は関わりのないところでの考えも知った上で

自分なりに理解しようと思った

 

 

 

 

 

そして少なくともこの時点では

今回の件だけにフォーカスしても 改善される事はないだろうと思っている

 

 

 



相手は?と聞いてくるのは 天気の話と同じスタンスの人でもあり

優勝すれば祝福をくれる人でもあり

 

それは他の著名人やスポーツ団体などに対しても同様で


もはや日本国籍ではない人が受賞した時でさえ

同類にカテゴライズして誇らしく思い

浮いた気分を味わっているように感じる人も少なくはない

 

 

 

望ましい事なら同じ側に立って

自分事として喜び

 

逆の事なら境界線を引き

他人事と非難もし

 



イメージ調査・視聴率・経済効果といった

資本主義社会で数値化される事や パレードにしても

そういった人達は一役買っていたはずで

 


都合のいいところだけ切り取るわけにはいかず

不況に喘ぐメディアはそこに活路を見出し 群がっている構図だ

 

 

 



 

生きてきた中での刷り込みに 疑問を抱かず言葉にしてしまうのは

年代の違いだけでもないし

 

応援する側の しばらく注視していたところも

望ましくない記述を悔いるでも消すでもなく 何気ない書き込みを再開し

また常識的に思える人達から変わらず容認もされていて

少なくとも表層的には何も変わらず

 

当たり前だが 行動にせよ発信にせよ千差万別である事を実感する

 

 

 

 

 

専門家でなくとも 心理に関して思い描ける事は多いと思う

 

 

人は良くも悪くも易々となびいてしまうし

アルゴリズムやフェイクなど 知識やリテラシーが必要なものも次々と出てくる

 

 

フィルターバブルやエコーチェンバーに取り込まれる事や データが利用される事を避けるより

得られるものに抗えず 多くの人が半ば催眠状態になっているような社会に

政治が本腰を入れる事などないだろう


携帯料金が安くなった事を評価する声はよく聞くが

小さいモニターの中でフィルターバブルに取り込まれれば

政治など真っ先に意識から外れるわけで

都合よく進めるには充分とほくそ笑む顔が浮かんで 腹立たしささえ覚える

 

 



 

 

ずっと思い留めていた事を言葉にしたい

 

 


好ましくない言動は 蔓延するほど許容の空気が広がり

多くの人がじわじわと茹でガエルになってしまう


だから誰であれ自らの発信が及ぼすその先を考えねばならないし

影響力のある立場になった人や団体は肝に命じておくべきだ

 

  

  

  

腐り切ってるから吐き出したい思いを持たない人なんていないと言い切りたい

ストレスフルなこの社会

 


だけど社会も地球もほんとヤバくて

替えも利かないんだよ

 

 


だからどうしてもというなら

鍵の中で言葉を吐き出したら

その後は



想う何かを守るため

それぞれが自らに誇りを持ち

遥か先を描きながら進める世界を願っている


  

    

 

また自分も より慎重になっているつもりなのに同じ轍を踏んでいるから

気を入れ直し広く学びつつ

割ける時間は少しでも描いて応援し続け 共に歩んで行きたい


 

 


 


  

 

 

 

 

 

この春の事は 気味が悪いだろうと控えめに綴ってはいたけれど

実のところ体重は30kgを切っていたはずだ

 

 

そこまで減ってしまったのは私も初めてで

しわが寄った太腿が目に入った時 事のマズさに気付き

 

精神的に参って衰弱死する事はあるだろうし

自分もそうなりかねないし

 

知られていないだけで そういった人達はいるんだろうと思った

 

 

 

あの時続いていたの痛みの原因はわからないものの

幸いにも描く事で戻れてから同じ症状は出ていない

 

 

 

 

 

父が早世したせいもあるのか

私は亡くなった様々な方達の想いについて考える事が多い

 

 


父の入院先で可愛がってくれた青年は 父より先に旅立ち

 

一緒にツーリングをした青年も30を待たずに

 

ムラの出ない色の塗り方を教えてくれた先生も

病に倒れ 逝ってしまった

 

 


 

言い始めたらいろいろ続くし

それは結構みんなと言えるほど 似た事なのかもしれないけれど

 

戦禍の中に散った人達も 自ら選んだ人達も

せめて悼みになるならと思いを馳せる

 

 

 

 

 

 

 

羽生さんのドキュメンタリーは好評だったようだが

一般的にドキュメンタリーを見ている人はどれくらいいるんだろう

 

 

 

 

 

この視聴をきっかけに見えにくい社会の問題を紐解く人が増えたなら

必ずやそれは遠くから彼を後押しする事にも繋がるはずで

 

そうなる明日が来る事も

私は心から願っている