長生きしたいと思えるほど 上手には生きられないーその中で尚 失われゆく命を問う




廻り来た

この季節。

 

 

 

 

「 節目の10年 」    

そう言って

 

メディアは様々に取り上げる。

 

 

 

 

 

 

福島の高校生である平子七海さんのプレゼンテーションが

とりわけ印象深い。


 

 

 

失われゆく命を問う

~17歳としての念い、そして叫び~

 

 

 

 

語られた

今に通づる ― 分断 ―

 

 

 

 

“ 当たり前が当たり前ではなくなってしまった “ 現況が震災に重なり、そこから提起する。

 

 

 

 

 

「 様々な社会問題の中で分断されゆく人々

 震災以降の福島を取り巻く環境とリンクしているように思います 」

 

 

 

 

 

災害時や緊急時に役立つ機能の提供など、震災をきっかけに誕生したLINE。

 

人と人とを結び付けられるwebでの機能は

震災時に大きな役割を果たす。

 

 

 

なのに今、SNSの世界では

言葉の暴力が恐しく増長し、蔓延している。

 

 

 

 

「明日が来るのが怖いという人はこの世界に大勢います

それでいて、死を選べばバッシングが降り注ぐ社会」

― 目に見えるものは、この世界のほんの一部でしかないはずなのに

気付いた時には大切なものは跡形もなく、たくさんの人がドロップアウトしていく ―

 

― 今、浮き彫りになっている問題は

社会の外側にいると感じる人々の“ 生き辛さ “ではないか ―

 

 

 

 

彼女は語り続ける。

 

 

 

 

 

― 不登校・虐待・貧困問題・過労死・マイノリティへの人権侵害

 

そして世界中にウイルスが蔓延し

死が隣り合わせにある事を実感している現状に於いて

 

今こそ人として、この世で人生を全うする事について

真剣に考えなければいけない ―

 

 

 

 

けれど見渡せば

 

― 辛い時期を生きる、様々な葛藤・苦しみ・苛立ちの中で

時に他人を傷つけたくなったり、生きるのをやめたくなってしまう ―

 

そんな人がたくさんいる。

 

 

 

 

 

「 努力が報われた事は少ないし

 

きっと、まわりにいてくれる人を知らないうちに傷つけてきたと思うし

 

長生きしたいと思えるほど上手には生きられない 」

 

 

 

17歳の彼女が発した言葉に

涙は止め処ない。

 

 

 

 

― 震災のあの時、自然の脅威から多くの命を救う事ができなかったけれど

 

いま、社会から分断されゆく人々の手をつかみ取って離さず

もっと自分も他人も愛せる社会を ―

 

 

 

 

鬱状態が続くなか

 

それでも彼女は その場に立ち

 

 

訴えるのだ。  


 

ナラティブ・プレゼンテーション No.22  平子七海さん

https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/movie-now/ch-narrative22.html 

YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=s4MAY-gNQ7Q

 

 

 

 

数年前、福島での自死の多さに触れた報道をよく見聞きした。


震災関連死の数自体

福島では年を追うごとに他県との差が大きく開き

2千人を超えている。

 

平子さんは原発について敢えて触れなかったように思うけれど

地震を起因とした原発へのダメージはあまりに大きく

この地への傷の深さは、計り知れない。

 



他の地域でも身近な人を亡くし、あるいは被害に打ちのめされ

あの日から進めない人、敢えて進まない人がいる。

  



そこに向けて自分ができるせめてもの事と

私も震災関連の話はできる限り追い、綴ってはいるが

 

慎重に選んだはずの言葉の至らなさに

都度進めずにいた。 




3.11について、意味を持って言える何かは

今も見つけられないし


これからも見つからないのかもしれない。






ただこれだけは書き留めておかなければと思う事がある。



天災は防ぎようのないものではあるけれど

上手くいかない前後の多くは、人間側の問題で

震災後の諸犯罪は、もちろん人が起こしたものだ。




罪を犯した人を責めたり、恐れたりするだけで

そこに至る社会が変わらなければ

何度でも問題は繰り返される。




気候変動による災害の頻発も、人が起因し

自業自得の面もある事を肝に銘じ


災害で命を失ったり、苦難にあった方々へ向き合い続けると共に

問題解決に取り組まなければ


災いと混乱がますます深刻になっていく事は明白だ。



悲しい出来事を忘れないのは、自分のためでも

自分が守りたい大事な誰かのためでもある。

  

  

  

 


今、ウイルスからの状況下

諸問題が可視化され、連鎖し、悪循環となって

国内での自死数も増加している。

 




先日、再び目にした「花は咲く」の平昌ver.では

哉中ちゃんと並び

 

クリスが歌っていた。 

 

 

 

頻発する天災で絶たれた命や、春馬さんやクリスや


この世から意図せず離れる事となった

数え切れない人達の想いが昇華できるような世界を

 

 

 

残された者は考え

行動に繋げていく事が求められる。


 

 



震災後 福島に移住した作家の柳美里さんは

先頃、話の中で

 

かつてない苦難の中に置かれ続けていた人々の心情として

魂の「孤絶」という言葉を選んでいた。


 

その切り裂かれるような言葉に表された、痛みが伝わる状況で人は

「こころの、人生の ー のりしろ ―」 となる場所が必要で

 

「他者の痛みを悼む」

 

「― 痛苦 ― でつながる事ができるのではないか」

 

そう語った。

 

 

 

言葉を編む事で生きてきた方の表現は、芯を突き

 

柳さん自身が、この地に生きる痛みを負った方々の のりしろとなって

外へと繋いでいる。

 

 

 




人と人とを繋ぐもの。

 

 

  

 

東日本大震災で大きな被害を被った、ある会社経営者は

ライバルだった同業者とグループを作り

復興予算の補助金を受けた。

 

 

そのグループ化により新たな販路を開拓したり

一社では受けられなかった大きな事業も共同で受注できるようになり

 

今では震災前を超える復活を果たしたという。

 

 

 

そのキーワードは

 

「競業ではなく協業」

 

 

 

 

 

そこから逆方向を指し示す一つと思うのは

 

― 分断 ― だ。

 

 

 

 

平子さんのプレゼンにも出てきたこの言葉が

この1年ずっと

頭の片隅に漂い続けている。

 


 

度々取り上げてしまうけれど

昨春のブログタイトルの一部にもした。

 

  





言葉については、これまで幾度も綴っており

及ぼす影響をますます強く感じる昨今

 

 


「対」の付く言葉は、潜在意識に対立構造を植え付けそうで

頻度も含め 気になっている。

  

 

 



また、「論戦が続く」といった主観入りの報道は常態化し

辞書にまで記載されているが



議論 or 論議でいいのでは、と 私は思う。




" 戦 "という言葉を付け加えるのは、その場の空気からだろうが

煽るような言葉選びは不穏な空気を醸し出し、流れが変わる事さえある。


報道はフラットに留め、あとは受け手に委ねるべきだ。


そうでなければ何かもくろんでいるのかと

訝しく思う。

 

 



広く根付いてしまった言葉が、本質を見誤らせているような事も多く


犯罪でしかない事案が「いじめ」などと報じられ、軽いイメージに変えられてしまうのも

問題とされて久しいのに変わらない。 



性犯罪も未だ「いたずら」とアナウンスされている。

グレーな段階なら、どの立場にも気持ちのいいものではないが

事件をそのまま読み上げるか、他の言い方を工夫すべきだ。

  

 

年金は「もらう」のではなく「受け取る」もので

 

日本人らしい、謙虚な姿勢の表れであるとか

言っても無駄とやり過ごしているうちに

 

納税はずさんに振りまかれ、受け取り額はどんどん細る。

 

わかっているつもりでも、そのシステムを再認識し

政府の動きをしっかり追わなければ

多くの人が喘ぐ未来がやってくる。



 

 

 

 

この禍に於いての時短協力金は、請求権がないものだから「政府からの施し」

そう表現する弁護士がいたけれど

財源は租税であろうのに、その物言いはおかしい。

 

頑なに一般的なマスクをせず、満足に衛生管理ができない麻生氏などは

いつもそういったスタンスとしか思えない言動を発するから

より反感を買っている。

 

  

 

選挙は「勝ち負け」ではなく、文字通り

選ばれたか否かで 

こちらこそ選ばれた立場であるという謙虚さを失わせており


誤ったスタンスからは誤った政治運営しか成されない、という事に

なってしまうんだろう。

 

 

 

 

 

逆に、どう受け取られるか練られた言葉に

人は流されがちでもある。

 

 

東京オリ・パラ組織委員会会長の後任に選出された橋本聖子氏に関しては

好意的な反応ばかりを見聞きしており

ましてや涙ぐんだようだと、より好感を示すコメンテーターもいた。

  

  

無事に叶うのであれば

オリンピック開催を皆が願っている事が大きいからだろう、とは思う。

 

 

 

 

しかし私は

バイアスがかかっているかもしれないが、それを考慮しても

 

橋本氏のここ数年にわたる言動や

 

セクハラについて言及された答弁では

巧妙に具体的な言葉を避け、あやふやに済ませたと感じ

 

どうしても腹落ちしない。

 

 

 

 

そこから考えれば

いろんな事案で先のコメンテーターと同じように反応している事は

私自身山のようにあるはずで

 

少しでも知見を広げていく必要性を痛感する。

 

 

  

 

“ いちいち細かい ”

そう思う向きも多いだろう。

 


だがこういった諸々にじわじわと侵食され

洗脳されていくのに気付けないのは怖い事で

  

逆に、正しい言語化の習慣は

他の諸問題にも地味に効いてくる。

 

 

 

 

ただ一方で “ 絆ストレス ” のように

良いとされる概念ほど逆方向に振れもし

悩ましくはあるのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウイルスも「戦う」のではなく

対処し、次に備えていく姿勢が問われるのだと思う。




言葉の綾ではない。




 

ウイルスは人類より先に地球上に存在していた。

 

 


先のもの全てが優先される、というわけではないにせよ

 

後から生まれ出た人間が、生存のためウイルス撲滅をうたうのは

どこか自己中心的な発想ではないのか。

 

それは、後からやって来た者が

先住民を排除しようとする歴史的な動きと重なる。

 

 

 

 

 

 

加えて、ウイルスは自ら感染のため忍び寄る事はない。

人の動きで媒介されるのだ。

 

自分達より前から存在するウイルスに

自ら動いて感染する状況から 敵対視するのは

どうも噛み合わない。

 

 

 

 

 

永久凍土のはずが、温暖化によって溶け出し

過去のウイルスが出て来たのは

 

誰の、何によるためか。

 

 

事象の及ぼす影響には、冷静に原因を追って解決策を探り

更にその先を想定し 備える事が必要なのではないのか。





昨春も綴ったけれど、新たなウイルス出現のスパンは都度短くなり

COVID-19が終息したとしても


次なる時は確実にやってくる。 

 

 

 

 

けれど一方で、敵対視していた先住民は

 

今まで困難だった何かの問題への糸口を

紐解いてくれる事だって、あるかもしれないのだ。

 

 

 

 

 

  

 

 

 

今、世界中で様々に上手くいかないのは

あらゆる面に於いて人類の能力がまだ足りないからだろうが

 

それでも何とかやり過ごせる時は過ぎ

大きなツケが回ってきた。

 

 

 

 

 

「地球に優しく」なんてお為ごかしで

その危機が急速に実感を伴ってきての

SDGs。

 

 

原発がなければ無理との主張は

いつだって安全な場所から発せられる。

 

英知の結集などと声高に謳い

甚大な被害は想定外と嘯くばかりだ。

 


 

地球の終焉を迎えないためには

省電力への知恵を集めつつ、先んじる動きを精査して

洋上風力発電など 代替するものの開発を急ぎ

 

各人が目を背けず、行動しなければ間に合わない。

 



合わせて平子さんが示したような

人との繋がりを構築していかなければ

その行動も上手く繋がらない

 

 



 

 

 

問題は様々に山積している。

 

 


ニュースでは、鳥インフルエンザにより多くの鶏を殺処分した事を淡々と報じ

自分が鶏だったらたまらないが、大きく括ればウイルスだって同じと思う。

 

アボカドは健康にいいと周知され、手頃に買えるようになった陰で

生産地の水不足は深刻となり、ウイルス感染を防ぐ手洗いさえ難しくなっている。

 

 

 

嗜好やこだわりや健康と引き換えに

他の命さえ脅かしている現実を、まず知る事に努め

 

流行りの何かではなく、真実を伝えようと努力するメディアを支持しないと

きっと皆が行き詰まる。




日本自体も 土地や砂や水や水域やいろんなものを

密やかな動きで他国に占拠されゆく脅威の中にあり


無関心でいると、だるまさんは転び

指をきられてしまう。




世界各地の紛争も、決して遠くの出来事ではないのだ。

 

 

 

  


しんどいけれど

諦めず考え続ける。 

 

 

それは弱者であっても持てる

最強の向き合い方だから。

 

 



 

 

 


滅入りそうな話を続けてしまったが

胸のすくようなニュースもある。

 

 


実体経済の伴わない 株式市場活況が続く中 

アメリカではSNSにより一般の人々が結集し、逆転劇を起こした。

 

 

再度打てる手ではないだろうし

ESGなどの観点からではない、今の株取引のありようを脇に置けば

知恵を寄せ合う事で好転できる方法はまだあるんだろうと

励みをもらう。

 

 

 

台湾のマスクマップでは、成功例として報じられている陰で

リアルタイムの入力が追い付かず混乱もあったそうだが

 

困った販売店の店主が、機転を利かせる事で対処でき

マップの改善につながったという。

 

 

 

 

 

いろんな事がシェアされる時代に於いて

オープンソースで突破しようとする企業もある。

  

それが社会的に望ましい事であれば

他からズルがあったり、おおもとが間違った方向に動くような時

私達は冷静な形で声をあげ、支援する事も必要だ。

 




肩こりに相当する言葉がなかった国では

この言葉が訳される事で、その症状を自覚するようになったとも聞くが


名称が付いて問題が可視化され

解決への道筋が付きやすくなる事もある。



各種のハラスメントなどは その最たるものだろう。

 

 

 

LGBTsは その存在が認知され

徐々にではあるが 社会的な地位も認められつつある。

 

 

 

 


加えて、現場に立たないと見えて来ない事も山ほどあり 

部外者の何気ない一言がヒントになる事例もけっこう聞く。



文句や批判ばかりしていても、事態は好転しない。


わからないなりに 誰もが考え続ける事から

転機は訪れる。

 

 

 

 

 

 

GDPが、本当に望むべきこの先の指標になるとは

私には思えない。

 

 

 

当たり前とされてきた事ではなく 

今を生きる私達が 心から望む事は何なのか。


 

 

 

  

無理とか 今からでは とかいう考えは頭から外して

本質と向き合わなければ

 

 

大切な誰かの 

望ましい未来もない。

 

 





その人のために

 

目の前の直接的な支えだけではなく

先を見据え、広い知見を得つつ


進む時は来ている。